「北九州大学文学部紀要」(編集・発行:北九州大学文学部比較文化学科、2001年3月、61号、1−15頁)

(This Japanese article "Bridges of Japan, Bridges of the World: Differing Attitudes toward Bridges in the Essays of Yasuda Yojûrô and Yanagida Kunio" was originally published in Kitakyushu University Faculty of Humanities Journal, Vol. 61, 2001, pp. 1-15. 

The English abstract has been placed at the end of the paper, just before the endnotes.)

 

ダニエル・ストラック 北九州大学文学部比較文化学科

『日本の橋』と世界の橋
――保田與重郎と柳田國男における〈橋〉の異相――

"Bridges of Japan," Bridges of the World: Differing Attitudes toward Bridges in the Essays of Yasuda Yojûrô and Yanagida Kunio

Faculty of Humanities, Comparative Cultures Department
Daniel C. Strack

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橋なき河は渡れず(1)

T
 古来、日本の文学や伝説において橋が数多く登場することが、極めて大きな学術的意義をもって考えられてきた。とりわけ日本文学研究や民俗学における橋に対する意識を高めたのは保田與重郎氏と柳田國男氏である。保田氏の『日本の橋』と柳田氏の橋姫伝説と味噌買橋伝説の研究は多くの研究者の橋に対する見解に強い影響を与えたに相違ないうえ、その影響は現在にまで及んでいる。しかし、保田氏と柳田氏の橋に対する基本的スタンスが異なっているという事実に関しては、今まで比較研究が殆どなされなかったため、明らかになってはいない。

  言語学者で認知科学者のジョージ・レイコフ氏の研究によると、言語表現は人間の身体的経験に基づくものでなければ成り立たない。生存競争に生き残るために必要だったが故、人間のメタファーに対する理解度は徐々に高められてきたのである。五感を通して得た情報をより巧みに利用するためには、頭脳における複雑な記号的活動が必要である。何が食べ物であるか、何が自分に危害を加える敵であるかという判断ができない限り、動物が生き残ることは困難である。この物の区別に関する認識は非常に強力であるため、人間が育つにつれて、具体的な場面で体験した経験は、頭脳内の抽象的な活動に関しても利用されるようになってゆく。

具体例を上げると、値段という容易に理解できる概念は、意外にも身体に基づくメタファーの活用によって理解されている。たとえば物を買う時、その値段が高いと思ったならば、値段という概念はすでに体得した、上の概念と下の概念に基づく意識を通して、頭脳に解釈されている。値段が高いということは物理的状況に関する問題ではなく、値段を下げようとする際に、値札を手に持って引き下げる人間はいない。地面を歩く私たち人間の値段に関する意識は、根本的に上は多いが下は少ないという感覚に基づいている。

 値段などに多く利用される、この上下に関するメタファーは、子供でも理解できる基本的な概念であるが、もっと複雑な例を取り上げることができる。次の日本経済新聞からの引用記事を考察したい。

「期待先行に過ぎたインターネット株バブルに水をかけ、成長の原動力である情報技術(IT)革命の効果を地に足のついたものにし、過剰消費の是正を促す。」(2)

経済情勢という抽象的な現象を理解する際には、様々な身体的メタファーが利用される。以上の文章に見られる体に関するメタファーは、空気が入っている泡を意味する「バブル」、「水を

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かける」対象の激しくなった火事、「原動力」となるエンジン、社会的反乱を意味する「革命」と、地に落ちてしまう人である。経済用語に慣れていなければ、この記事は完全に異なるメタファーが多すぎて分りづらいかもしれないが、専門用語に関するメタファーに慣れた時点では、理解することができる。日常会話においても、人間は同様に複雑なメタファーを殆ど無意識に利用している。

  筆者の研究によって明らかにされた通り、橋のメタファーは直感的に理解できる隠喩性ゆえに、作者が意図的に利用しない限り、芸術作品には殆ど登場しない。(3)日常生活における橋は殆ど無意識的に読まれる反面、強力な心理的イメージを芸術作品にもたらすが故に、不要な残響音を残したくない作者にとっては気軽に書き込めるものではない。橋は、「人類に普遍的な象徴を帯びた原始的心像」(4)(アーキタイプ)であるため、言語上の理解よりも、他の、より基本的な五感に基づく理解の方が機能しやすいのである。メタファーの心理的強度は人間の身体的理解に左右されている点に関しては、アメリカのレイコフ氏と認知科学者、文学研究者マーク・ターナー氏が以下の基盤の定位を提供する。

  このように、基本的な隠喩は経験に根ざす度合いも、また日常的認知と合致する度合いもさまざまである。だが詩作品で用いられる基本的な隠喩が経験的な基盤をもっている限りにおいて、その力はわれわれの経験自体の性質に基いている。(5)
特に橋の隠喩性に関しては、直感的なイメージが強力であるため、芸術作品に登場する場合、普遍的な隠喩性が見られる。
多数の文学作品の分析によって明らかになる橋の隠喩性は、主に十項目に分類できる。この橋パラダイムの隠喩性に関しては、先行研究(6)で詳述されているが、レイコフ氏とターナー氏が提供するメタファー論の形式を利用すると、以下の通りとなる。

橋パラダイム隠喩性


@人生の困難を乗り越えるのは橋を渡ることである
A人間関係の発展は橋の建築である
B人間関係の破綻は橋の破壊である
C運命の逆転に遭遇するのは橋を渡ることである
D死につつある人は橋を渡る人である
E分離している二つの状態の接触点は橋である
F超越的な視点から透視するのは橋から眺めることである
G人間の文化的な洗練は橋梁技術である
H武力制圧の準備は橋を架すことである
I犠牲が払われる場は橋である

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上記の項目はメタファー論の強力な理念によって支えられたカテゴリーであるからこそ、橋の文化的象徴性を問題とする、本稿に役立つと考えられる。

U
  柳田國男氏の民俗学研究として発表された橋姫伝説は非常に興味深い地方的伝説である上、日本文学などに多大な貢献をしているに相違ない。上記の認知科学を利用するメタファー論によって、その研究の価値を再認識したい。
橋姫伝説は山梨県など、日本の様々な地域に散在する民話である。大筋は以下の通りである。旅人が橋に近づいたところ、女の人が現れて、その旅人に依頼を行う。「この手紙を持って、道中を歩き続け、次の橋に到着した際に、別の女性が見えてくるでしょう。その人に、この手紙を手渡してください」と指示する。ところが、その旅人がその指示に従った際に、その次の橋に登場する女性はその旅人を殺してしまう。二人の女性は実は離れた地方に住んでいる悪意を抱いている女神或いは鬼である。この物語に教訓があるとすれば、旅人は知らない人の使いになるべきではないということだろう。「今昔物語」にも類似した物語があり、話の具体的内容は地域により多少異なっている。中国に、類似する旅人の物語があることも柳田氏の研究によって明らかになるが、その話には橋は登場しない。しかし、日本の民俗の一部を構成する様々な橋姫伝説の中の橋に関するニュアンスを考察すれば、橋は神秘的な場所であるという柳田氏の認識を推察することができ、それ故に「橋占」(はしうら)の原点と橋は、共に〈透視力を与えられる場所である〉という象徴性を理解することができる。

  橋姫伝説における橋の隠喩性は様々なパターンで現れるが、主に橋パラダイムの隠喩性の五項目が見られる。〈運命の逆転に遭遇するのは橋を渡ることである〉という隠喩性は、昔から日本文学、世界の文学において共に多用されるが、橋姫伝説においては旅人が橋の登場を境として安全な状況から危険な状況に移る。旅人は女神に殺されてしまう描写があるバージョンのみに登場するが、旅人は橋を渡ることによって死に至る道を歩み、〈死につつある人は橋を渡る人である〉という隠喩性を機能させていると考えられる。橋が神と人間の交流する場所として描写されていることも注目すべきである。しかし、橋は神と人間が交流する場所であると認識すれば、〈分離している二つの状態の接触点は橋である〉や〈超越的な視点から透視するのは橋から眺めることである〉といった二つの隠喩性が効果的に機能していると判断できる。結局、旅人が女神同志の競争ゆえに、犠牲になることを考慮した上での、複雑な隠喩性である。〈犠牲が払われる場は橋である〉も見極めることができる。この五つの橋パラダイム隠喩性が機能

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しているため、柳田氏の研究によって明らかとなった橋姫伝説は興味深い伝説であることが分かる。

  筆者の研究においては、橋に異なった隠喩性が含まれている度合いが高い程、話の心理的な深味が感じとられると考えられる。それ故、橋姫伝説は心理描写が豊かな物語であると予測される。柳田氏が中国にも類似する伝説がある事実を指摘したことについては、多大な学術的貢献を行ったといえる。物語の源泉と見なされる国に関する判断を下すことは非常に困難である。その伝説は中国或いは日本から広まった可能性もあり、或いはもう一つの国が伝説を生み出し、それが日本と中国に移入された可能性(7)もある。しかし、文化が異なるとしても、世界中の人間が持つ心理的基盤が共通であるため、同様な民話が同時に生まれるという不思議な過程も指摘できる。いずれにしても、彼は人類における民俗の普遍性と共通性を表現する一方で、日本独特の橋におけるニュアンスを明らかにした。橋姫伝説は日本にしか存在しないが、橋における神々と人間の関わりを描いた民話、伝説は世界中に見られ、橋姫伝説はこれらと類似しつつも日本独自の特徴を持っている例と位置付けることができる。

  古典と民話において、橋は透視力を人間に与える場として頻出する。橋姫伝説以外にも、「味噌買橋」(8)も柳田氏の研究対象となった注目すべき伝説である。その大筋を要約すると、長吉という正直な炭焼が夢の中で味噌買橋に宝があると教わり、実際にそこに行く。その近辺に立っていると橋の袂に豆腐屋の主人が来て、彼に夢の内容を話し、その結果、その豆腐屋も同じ夢を見たことが分かる。夢の中で長吉の屋敷にある杉の下に金銀が埋まっていると教わったが、嘘と思って信じなかったことを語る。それを聞いた後に、長吉は橋から家に帰り、杉の根元の金銀を掘り起こし、大金持ちになる。ところが、柳田氏はイギリスの類似した民話(9)も考察の対象としている。味噌買橋伝説のメタファー論による隠喩性(及びイギリスの類似した伝説)の比較によって、橋の緻密な機能を発見することができる。

  両方の伝説において、貧しい人が橋の夢を見た後に、橋に行き、その結果、大富豪になるが、〈運命の逆転に遭遇するのは橋を渡ることである〉という隠喩性が機能していることに気づく。大金持ちになったという点のみならず、多義的な意味でも〈分離している二つの状態の接触点は橋である〉という隠喩性を見出すことができる。橋は境界線であるからこそ、夢を信じることの大切さ、本当の宝は自分の家にあるなどといった教訓が、心理的にも境界線を越えることによって成り立っているといえる。夢は神からのお伝えということは多くの伝説の中に昔から見られるが、夢が橋へと導くことによって橋の神秘的象徴性が明確に見えてくるとはいえ、〈超越的な視点から透視するのは橋から眺めることである〉という隠喩性はこのプロット展開によって明らかになる。橋姫伝説ほど橋パラダイム隠喩性の項目は見られないが、その二つの民俗の共通項を見逃さなかった柳田氏にとって橋は物語に偶然登場するが、橋は「占なひや呪ひ

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の場所に使はれ、最も神秘を説くにふさはしかつたので」(10)、作者は強い印象を残すために橋を利用したと語る。

  その類似した物語の共通性を指摘した後に、遠く離れた二つの国の伝説がなぜ類似性を持つのかという問題に関する答えの可能性を三つ取り上げたい。第一は、両方の物語は、イギリスと日本の間に位置している国(たとえば中国)の伝説が日本にも、イギリスにも時間が経って伝わってきたことである。実際に中東文化圏の『千夜一夜物語』他にも類似する物語が見られることを杉田英明氏の研究(11)が指摘しているが、その中東の物語には橋が登場しないことを考慮すると、正に橋の不思議な象徴性を強調するばかりである。共通の原点には橋が登場せず、偶然に橋は遠く離れた二つの国の物語に発生したということがより驚くべきことだろう。

  第二の答えは橋の心理的イメージが神秘性に満ちているため、全く違う文化においても、類似した伝説が創作されたというものだ。これは不思議なことながら、それが事実であると柳田氏自身が信じていたことに注目したい。柳田氏はそれに以下の通り付け加えている。


「橋に伴なふ不思議話は日本なども決して乏しい方ではない。」(12)


正にその通りであるが、もう一つの可能性は櫻井美紀氏と伊藤浩子氏の研究(13)によって明らかになっている。それは味噌買橋伝説がイギリスの物語から影響を直接的に受けたという点である。状況証拠といえども、因果関係を裏付ける情報がある程度揃っているように思われる。しかし、現在まだ推測の域をでないため、三つの可能性が共に残り、第三案の方が妥当だと認めるとしても、〈味噌買橋〉伝説が何故日本の伝説として容易に定着していたのかという点に関しては、やはり橋の普遍的象徴性に、その原因があると思う。いずれにせよ、柳田氏もその普遍的な神秘性の研究を通してそれを発見したことは否定できない事実である。

  日本の古典は勿論のこと、現代小説の例も少なくはない。川端康成の「反橋」(14)、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』、三島由紀夫の「橋づくし」などが思い出されるが、宮本輝の『道頓堀川』(15)は特に好例である。


 味噌買橋伝説の謎を解こうとする杉田氏も、柳田氏と同様に橋の象徴性の豊かさを理解した上で、以下の通り解説している。

すでに多くの指摘がなされている通り、まず第一に、やはり橋が人や物資の往来を容易にするために作られた経済的施設であり、情報が集中する最も目立つであったことが重要であろう。橋は誰もが迷うことなく到達できる確実な目標物であると同時に、そこで最も簡単に多くの人々と出会い、情報を得ることができた。仮にこれが市内の市場や教会堂であっては、こうした条件を十分満たすことは不可能だっただろう。また第二に、橋の持つ宗教的性格も考慮する必要があるかもしれない。橋は聖なる流れに架け渡された、彼岸と此岸、現世と来世とを結ぶ絆であり、「教会や聖堂と同じく神聖な施設」であったから、あるいは境界として

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の神秘性を帯び、「最も神秘を説くのにふさはしかつた」ために、人々の幸福を求める夢がここに託されたと見ることも可能である。(16)

  結局、味噌買橋伝説がイギリスから日本に伝来したか否かに関わらず、柳田氏は日本の伝説、民俗学の研究を行った際に、外国の伝説、民俗を無視しなかった。この幅広い視野があったからこそ日本の〈橋伝説〉の不思議さ及び橋の強力な象徴性が明らかになったのである。ドイツの心理学者ユングがイコンの力と人類の Collective Unconscious (心理集団的無意識)を指摘したのと同様に、柳田氏はより広い視野から考察することによって、日本の民俗学研究に貢献できたと共に、世界文学の心理的基盤であるメタファー研究の行方を予測したと考えられる。結論を述べると、柳田氏の橋姫伝説研究における橋は、普遍的な隠喩性も日本独自と考えられる象徴性も共に包含しているが、遠く離れた中国、イギリスなどに、日本の〈橋伝説〉と同様な民話があることを指摘する柳田氏は、橋の心理的基盤に根をおろしている真相に関する理解を提示するのである。柳田氏の橋に関する研究が橋の普遍的な隠喩性を示唆するのとは対照的に、保田與重郎氏の『日本の橋』は橋の普遍的隠喩性を否定するのみである。

V
  保田氏の『日本の橋』は一九三六年「文学界」に初めて掲載されたが、加筆の上、一九三九年に東京堂から改訂版が刊行された(17)、日本文学に登場する橋に関する最も有名なエッセーである。保田氏は繊細な美的感覚をもって、古典を中心に、様々な橋が登場する場面を取り上げ解説を行い、その作業を通して日本文化における橋の解釈に貢献したのである。保田氏は主に伝説と歌枕から幅広く引用しつつ論を進めたのであるが、その中で橋のメタファー論的隠喩性の幾つかを指摘している。保田氏自身が『日本の橋』において明確なコメントを付した隠喩性は以下の通りである。

 〈人間関係の発展は橋の建築である〉という橋の隠喩性を示唆する保田氏は『枕草子』、『万葉集』、『源平盛衰記』、一条戻橋などを例としてあげ、武者の母が架けた裁断橋に関しては「かなしみの余りこの橋を架けた女性は、心情によって橋の象徴と日本の架橋者の悲しみの地盤を誰よりもふかく微妙に知ってゐた」(18)と述べる。本居宣長などに言及し、「此岸を彼岸につなぐ橋は、まことに水上にあるもの虚空のものか」(19)という発言によって此岸と彼岸という表現を利用する保田氏は〈死につつある人は橋を渡る人である〉という隠喩性を大いに理解していたことも分かる。「神代の日の我国には数多の天の浮橋があり、人々が頻りと天上と地上を往還したといふやふな、古い時代の説が反って今の私を限りなく感興させるのである」(20)という発言によって、〈分離している二つの状態の接触点は橋である〉という隠喩性に関する保田氏の理解が示され、「橋は人間の交通を語って人生過現未の往来をさへ教えた」(21)という指摘を通して抽

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象的な隠喩性の〈超越的な視点から透視するのは橋から眺めることである〉が示唆されるのである。

  もちろん保田氏は「羅馬人の橋」やナポレオンの鉄橋などを素材として、〈武力制圧の準備は橋を架すことである〉という隠喩性を取り上げている。この点に関して保田氏は「しかし羅馬人の橋が、主として征旅の軍隊や凱旋の獲物を車輪で運ぶに適した…」(22)など、『日本の橋』に数多くの引用を行っている。その理由はやはり羅馬の橋と日本の橋を対照的に取り扱うためであったと思われるが、この対照は〈人間の文化的な洗練は橋梁技術である〉という隠喩性によって成り立つ。日本の橋と羅馬の橋の違いを詳述し、日本文化そのものが橋によって表現されていると主張する保田氏は、繰り返し「いつか橋を考へてゐるなら、その瞬間にこんな橋を思ひ出す、それはまことに日本のどこにもある衰つぽい橋であった」(23)などという指摘を通して日本文化の洗練性や優れた価値観を強調する。実際、保田氏の論理においては橋パラダイム隠喩性のG番が最も重要な概念であり、〈人間の文化的な洗練は橋梁技術である〉という隠喩性が不在では、『日本の橋』は書かれなかったであろうといっても過言ではない。

  最後の〈犠牲が払われる場は橋である〉という隠喩性も『日本の橋』において指摘され、「人柱こそ河上の橋のさきに、神と人の間に架けられた橋であり、犠牲であった」(24)との形で、人柱、長柄橋伝説などの日本文学、歴史からの引用が見られる。
保田氏のエッセーの対象となった隠喩性を考察すると、保田氏の美学や文学に対する洗練された感受性を確認できる。橋という意味深いものに取り組んだのみならず、上記の橋パラダイム隠喩性の十項目の中で、七項目を的中させたことは実に感服すべきである。やはり保田氏は橋の象徴性の心理的豊かさを深く理解していたのだろう。保田氏が人間関係の象徴としての橋に注目していたことの証拠として、多数の引用が可能であるが、以下の個所を取り上げよう。

     「ものをつなぎかけわたすといふ心から、橋と愛情相聞の関係はずゐ分久しいもののやふである。」(25)


特に保田氏は橋パラダイム隠喩性Gの〈人問の文化的な洗練は橋梁技術である〉ということに注目し、繰り返し強調したのは、日本文学と生活の両方に見られる「哀れつぽい」橋はもののあわれを重視する日本文化に最適な表現である点だ。筆者は保田氏の目的は以下の個所によって、確認できると考える。


「日本の文学も日本の橋も、形の可憐なすなほさの中で、どんなに豊富な心理と象徴の世界を描き出したかといふことは、もう宿命のみちのやうに、私には思はれる。」(26)


もし日本の文化や文学の価値を強調することが執筆動機であったとしても、それは特に不適切ではない。『日本の橋』を読むことによって、確かに日本文学の感情の深さと豊富な伝統がはっきりと認識できる。しかも、日本国内においても、外国においても、このような心を込めた指

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摘がなされない限り、誰もが日本文学の優れた特質を知る機会を逃してしまう可能性があるのだ。
  もし保田氏が『日本の橋』のみに対して批評を行っていたならば、文壇の〈日本の橋〉への理解に貢献した功績によって、高い評価を与えられるべきである。しかし、世界レベルにおいて評価されている日本文学の現状から『日本の橋』が書かれた時点を振り返って、評価の再認識を行えば、〈日本の橋〉のみならず、〈世界の橋〉をも話題にすることによって、氏の研究姿勢の盲点が明確にできるといえる。

  以上の解説によって、橋パラダイム隠喩性の中においては『日本の橋』に見られない項目が複数残っていることも分かる。この三項目が『日本の橋』に包含されているとしても、研究をさらに極める余地は残っていると考えられるが、特に橋が運命の逆転を起こす機能の隠喩性は日本文学において、重要な意味を持っているだろう。具体例を上げると、芭蕉の句(27)と近松門左衛門の浄瑠璃「国性爺合戦」、「槍の権三重帷子」などがある。日本文学はこの点に関して、優れた作品を多く生み出しているにも関わらず、保田氏がそこに焦点を当てなかった理由は彼の研究範囲が狭すぎたからである可能性がある。

  保田氏は日本の橋の本質を探求するにつれて、様々な外国の橋の様相を対照的に分析する計画であったが、実際には具体例が殆ど登場しない。その上、その比較において日本文学における橋が一方的に魅力的に描かれているのとは対照的に、外国の橋は不自然で、軍事的な意味が込められているものとして悪意をもって分析されているといえるが、それは以下の通りである。

表一: 保田氏における〈日本の橋〉と〈外国の橋〉の描写対照項目

     〈日本の橋〉の描写                               〈外国の橋〉の描写

一 

「道の延長」

「キリスト教伝道の殿堂の延長」或いは「建築の延長」

「自然」で「果敢な」

「雄大な人工のみ」

三 

「世俗」的「意義」をもつ「百姓」の橋

「異国の政治文化」の橋

「優雅」であって、「文芸芸能と同じ 心の抒情」をもつ、「形の可憐」さと共に「豊富な心理」を表現する

「たゞ超える」

「自然な生活を楽」しむ日本人の「現代 版浮世絵」

「敵の征服」を望む「紅毛人」の「防塁」

 

 上記のような一方的評価は、その当時とりわけ「日本的なもの」が流行していたため(28)、日本人読者にとっては親しみやすかったといえる。戦後「日本至上主義」に反対する声も上がったが、氏の解釈が正しい情報に基づいていれば、批判の余地はないだろう。しかし、筆者自身の

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見解によると、この橋の比較によって様々な具体的問題が生じてくるので、遂一取り上げたいと思う。

  最初の間題点は最も基本的なカテゴリーに関する間題である。エッセーということで意図的に曖味に書かれているとはいえ、「西欧」という概念はこの橋の比較には適していない。一体どちらの国がこの広い意味での定義に入るのかに関しては、保田氏は答えていないので、検討してみよう。ローマ帝国とナポレオンは『日本の橋』の中で指摘されているので、イタリアとフランスは確かな考察対象である。スペイン、イギリスとドイツも恐らく範囲内とみなされるが、北欧のノルウェーや、ローマ帝国の支配下にあった中東の国々が包含されているか否かは不明である。ブルックリン・ブリッジはすでに架けられていたが、当時のアメリカは恐らく入っていないだろう。西洋の人々が東洋の国々を一まとまりとして誤解してしまう傾向が Orientalism といわれるのであれば、保田氏の『日本の橋』はそれを逆転した形での Occidentalism を使用しているといえるだろう。とはいえ、『日本の橋』とは対照的に、「西欧」の橋のみならず、アジアの中国の橋も考察することによって、単なる、 Occidentalism の域を脱している。

  『日本の橋』という題の作品であるが、木橋を賞賛する保田氏にとっては九州の石橋も異邦人の橋に見える。一四五二年に沖縄で日本初の石橋が架けられてから、現在まで九州各地に一二三七の石橋が架けられてきた(29)にも関わらず、九州の橋文化が中国の影響を受けているという事実があるために、長崎市にある古い石造の眼鏡橋に対して、保田氏は「汚くよごれた穢れた小川の流れが悲しく思へた」(30)という醜悪な視覚的イメージを、とりわけ選択している。しかし、導入部に登場する、氏が賞賛する東海道線沿いの「日本のどこにもある哀つぽい」(31)橋は石造やコンクリート製であったことを考慮すると、路線沿いの橋が彼を魅了した理由は一体何かと自問してしまう。保田氏が書いた、一九三九年当時までに、日本の多くの橋はすでにコンクリート橋や鉄橋に架け替えられつつあった(32)ので、氏はノスタルジー故に『日本の橋』を書いたと、彼の動機を推察することができるが、そうであれば、『日本の橋』よりも「江戸の橋」や「京の橋」という題名の方が適切であったかもしれない。

 第二の問題点は、保田氏によると、日本語の「橋」の語源は「西欧」の〈橋〉の語源と異なるが故に、〈橋〉の意味も異なるというが、日本語の場合と同様な語源は西洋にも多数ある。ラテン系言語のフランス語における Pont(橋) の語源説を考慮さえすれば、保田氏が指摘した日本語の語源説と殆ど同じ語源説が見られる。保田氏は「道の端」を指摘したが、フランス語の語源の Pôns には「小道」(33)「丸太道」(34)という意味が見られる。さらに「舟」(ハシケブネ)という語源説に対して、「輸送船、渡し船」(35)を意味する古代ラテン語の  Pontô があり、日本語の「梯」に対して「舟梯」、「(建物の)階」(36)を意味する古代ラテン語の Pôns を取り上げるこ

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とができる。実際に西洋の語源説に見出せない日本語語源説は一つのみであり、それは最も考えづらい候補である「箸」である。外国語における〈橋〉の語源は、驚くほど日本語の語源の場合と類似していることが分かる。しかし、日本語である「橋」の語源を探求しても、西欧における〈橋〉の語源と比較しない限り比較にはならない。その当時、優れた語源辞典はすでに日本にあったと考えられるが、保田はどの言語に関しても具体例を取り上げなかったため、誤解している。氏が西欧の主要言語の〈橋〉の語源を調べていたならば、柳田氏が発見したのと同様な、世界中に見られる不思議な橋の共通性を発見したかもしれない。

  第三の問題点については表一における対照の二番から四番に窺える。それは、西欧の美術作品における〈橋〉には深い心理的な意味合いが込められていないことである。保田氏は繰り返し、日本の橋は特別な意味を持つ橋であることを主張するが、この理解が妥当であるとすれば、日本以外の国の文学には日本文学の場合と同様な橋の象徴性は見られないはずである。しかし、筆者の先行研究で明らかになった通り(37)、日本と同様な〈橋〉の象徴性は世界中の文学に登場する上、橋の基本的な隠喩性は普遍的であることがすでに明らかになっている。もし保田氏が外国の文学の例を一つでも取り上げていたならば、全世界共通の橋の象徴性を発見したかもしれない。しかし、この不可欠な研究を行わずにエッセーを書いたため、誤った情報を提供する結果に終った。

  第四の問題点は保田氏の非常に単純化された解説である。橋は象徴性があるのみならず、社会的用途がない限り初めから造られなかった。山口祐造氏の『石橋は生きている』という著書で明らかになるのは、日本も他の国と殆ど同様に、橋梁技術は目的に応じて発展したということである。(38)ローマも遠い昔に丸太橋を利用していたが、次第に周囲の社会が変化したため、新たな橋が要求されるようになった。現代においても石橋が九州に多い理由は、急流が多く、河川にはすぐ腐る木橋が不適切であるからとされている。しかし、実質的に本州の河川は九州の河川と同様に川一つ一つによって様々な様子が見られる。石橋が本州では遅れて応用されたもう一つの理由は、ちょうど石橋が沖縄経由で日本に移入されようとした当時、戦国時代の常識によると、石橋は敵を招く危険性があった点である。保田氏の解説のみを読んだならば、日本人が木橋を選んだ理由は平和な人間関係の象徴が込められている橋であるからだと理解してしまうが、歴史を振り返ると、氏の解釈の弱点が分かる。根拠として、土木学会関西支部による福井県にある九十九(つくも)橋に関する以下の研究がある。


「半石半木であることのもう一つの理由は、軍事上の必要からでした。…敵の襲撃を食いとめるために火を放ち、木橋部分が焼失しても、平和になってから、残った石橋を足がかりにすればすぐ修復できます。」(39)


さらに付言すると、江戸時代に大きな川に橋が架けられなかった理由は、以下の通りである。

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「主要な川に橋が架けられなかった理由としては、@江戸防衛のための軍事的配慮、A架橋技術の未熟、B宿駅の収入確保、C地域経済の未発達などが考えられます。」(40)


以上の引用によって、昔の日本の橋が木で造られた理由も、橋が架けられなかった理由も、軍事的、政治的な配慮のためであったことが分かる。

  実用的な橋は時代の要求に応えており、東京においても石橋の美しさが日本人には分らないとはいえないだろう。しかも、ヨーロッパ各地の、すでに存在していた様々な橋文化がローマ帝国の石橋に圧倒されたことは、車社会が日本にも登場し、実用的なコンクリート製の橋が広まったのと同様な現象である。マンハッタンの摩天楼に負けない大きさのブルックリン・ブリッジを生んだアメリカにおいても、アイオワ州、バーモント州などに見られる上品で、懐古趣味を漂わせる屋根付きの木橋の存在があることを考えると、現代的な橋のみならず、昔ながらの橋の異質な美しさにもアメリカ人が魅了されていることが分かる。そのアメリカにある木橋の原点はスイス、ドイツ、オーストリアなどに散在する屋根付きの木橋であることを考慮すると、保田氏の〈西欧=石橋文化〉という単純化された論理の弱点は明らかになるだろう。(41)

  また九州は江戸から見ると外国に等しいと思えたかもしれないが、鹿児島の七つの石橋、長崎の眼鏡橋、熊本県の通潤橋の水道橋などといった伝統が豊かな日本の石橋を考えた上で、日本人は木橋が好きだといえば、単純に「日本人は皆納豆が好きだ」というに等しい。結論としては、ローマ人が様々な理由故に、石橋を建築したのと同様に、江戸時代の日本も、政治的、軍事的な、様々な理由で木橋を架けたのである。保田氏は外国文学、外国史などに関して詳しくなかった。「西欧を知らない私は、たゞ恥かしめもなく日本を知つてゐると語らう」(42)という保田氏であるが、ローマの石橋の場合と同様に、日本の幕府も、戦略や地方の経済的弾庄のために木橋を利用した事実を考慮したならば、保田氏の日本の橋梁史に関する知識も万全ではなかったと考えられる。保田氏は日本人が石橋よりも木製の橋を好むというが、当時の日本橋も、現代の明石海峡大橋も共に木製ではない。橋梁技術が進んで、文学における橋の象徴的意味が変化することは当然であるが、日本のみならず、全世界共通の橋の原点は丸木橋であることを考えると、外国文学を十分に理解した上で日本の橋を解釈する余地があると、私は思う。

  結局、保田氏の『日本の橋』は重要な資料ではあるが、徹底的な調査に基づいた研究とは言い難い。西洋の橋に関する解説には誤解があるために、高い評価を与えるべきではないのみならず、日本の橋の歴史に関しても、認識不足があったため、日本のみにある〈橋の美〉を描くエッセーとしても失敗に終ったと考えられる。学術的に誤った情報を提供した上に、万国共通の橋の美的ニュアンスを無視することによって、保田氏は日本の橋の本当の美しさを十分に証明することができなかった。

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W
  柳田氏と保田氏の研究とエッセーは数十年前に執筆されたものである点を考慮すれば、二一世紀の知識を利用して再評価する必要が本当にあるのだろうか。文壇への二人の強い影響力を考慮した上で、筆者は必要だと考える。何人かの研究者は保田氏の研究に対して疑念を感じている。特に大橋良介氏は以下の通り述べている。


「(外国の名橋)との比較をくぐらないと、「日本の」橋の特質も本当には見えてこないということはないか。保田においては外国の名橋との比較は特にはないから、そういう疑問はどうしても生じる。」(43)


しかし、大橋氏はこのわずかな疑問を投げかけたのちに賞賛に入る。つまり「疑っているようで疑わない」評価である。現代の日本においても、橋に関する、「比較しない」比較研究が続いている。同じく一九九八年に出版された「日本の美学」の橋特集には「だからやっぱり西洋の場合だと構築物の一つとしてつくられるけれども、日本の場合は非常に浮遊したイメージがあって…」(44)や「ヨーロッパは公の橋だけど、日本はプライベートだ」(45)などという誤解に満ちたコメントが相次いでいる。美学的、学術的な知識は目標であると考えられるが、この不正確な論じ方は保田氏の『日本の橋』のあり方に非常に類似していることに注目すべきである。

  ヨーロッパにはアジアと同様に様々な文化があって、一まとめにすべきではない。しかも、日本の昔と西欧の現在を比較した際に日本をノスタルジックに眺めるのは当然のことだろう。現在の日本の(博物館外)の橋を見ると巨大な吊り橋が公金によって多く築かれているが、「形の可憐」な木橋ではないのは恥かしいことではない。橋梁技術の進歩に伴って、橋の実用的な、象徴的な可能性は拡大してゆく。文学も同様である。日本文学において、美学的に優れた研究すべき作品は多数あるが、その特質は日本文化のみの特徴に基づくものではなく、世界中に見られる文学の技巧が日本の文学においても活用されているからこそ優れた作品が生まれたと評価できる。

  結論としては、保田氏は幾つかの橋の象徴性を取り上げたが、日本以外の国の橋に、より多くの注意を払っていれば、日本の橋ヘの理解がさらに深まっただろうといえる。無論、世界の各国の文化は異質な特徴を持っているが、認知科学やメタファー論の研究によって明らかになった通り、隠喩は単なる文学的装飾ではなく、人間誰もが頻繁に利用する、認知の基盤となる不可欠な役割を果たしている。橋の隠喩は人間の基本的な経験に深く根をおろしているが故、橋が世界の文学に普遍的に登場するのである。

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English Abstract

     Many current assumptions about metaphorical bridges in literary context may be traced back to the scholarly essays of Yasuda Yojûrô, a Romanticist literary critic, and Yanagida Kunio, the famed researcher in Japanese folk culture. Examining specific references to bridges made by both scholars reveals a stark contrast in their respective attitudes.
     Yanagida's thorough and well-informed research compares bridges in Japanese folk tales with those found in the folklore of other cultures. In contrast, Yasuda's more sweeping study, Bridges of Japan, while portending to be a comparative essay, only mentions a handful of foreign bridges and offers not a single example of a non-Japanese bridge in literary context. The corresponding conclusions drawn in each study differ considerably. While Yanagida identifies numerous commonalities between the representation of bridges found in Japanese and foreign folk tales, Yasuda asserts fundamental cultural differences that, in turn, necessitate diametrically opposed understandings of bridge metaphor between Japan and other countries. A reexamination of these scholars' respective attitudes toward bridges reveals that Yanagida's research anticipates later findings about bridges in narrative context, metaphor and recurrent strategies of human thought. Conversely, Yasuda concludes that a sophisticated appreciation of the metaphorical content of bridges in literature must be exclusive to Japan. In fact, many of his starting assumptions about bridges in foreign literary context prove baseless.
     Although Yanagida's observations concerning bridges in Japanese folklore largely retains its value under close scrutiny, Yasuda's unsubstantiated (and largely unchallenged) assertions have undoubtedly misrepresented foreign and Japanese bridges alike for many scholars seeking a genuine understanding of bridges and their role in literary context.

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(1)水上齊 A Collection of Japanese Proverbs and Sayings (With Their English Parallels)(一九四〇年、開隆堂)八三頁。

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(2)「米経済に株価の警鐘」(日本経済新聞、二〇〇〇年四月二〇日)。

(3)ダニエル・ストラック The Sacrificial Bridge: Literary Symbolism Transcending Cultural Paradigms (一九九八年、北九州大学文学部紀要第五七号)

(4)『研究社新英和大事典、第五版』(一九九八年、研究社)一〇九頁。

(5)ジョージ・レイコフ、マーク・ターナー『詩と認知』(一九九四年、紀伊国屋書店)九五頁。

(6)ダニエル・ストラック Deliver Us From Nada: Hemingway’s Hidden Agenda in For Whom the Bell Tolls (二〇〇〇年、北九州大学文学部紀要第五九号)

(7)柳田國男『柳田國男集』第五巻(一九六八年、筑摩書房)二一八頁。

(8)同書、四六四頁。

(9)Gomme, George Laurence  Folklore as an Historical Science (ロンドン:一九〇八年、Methuen)。

(10)柳田國男『柳田國男集』第六巻(一九六八年、筑摩書房)四六八頁。

(11)杉田英明「橋の上の宝の夢:中東説話の東西伝播」『比較文学研究:第七三号』(一九九一年、東大比較文学会)。

(12)同書、四六八頁。

(13)櫻井美紀氏前掲論文。浅野吉久「この町こんな物語」上、『飛春秋』続刊第四号、高山市民時報社、一九九一年一一月十日、一六〜一九頁。伊藤浩子「『味噌買橋』はイギリスから?」同二〇〜二三頁。

(14)ダニエル・ストラック「『反橋』における〈橋〉:象徴と解釈」(一九九九年、近代文学論集、第二五号)。

(15)ダニエル・ストラック「宮本輝の『道頓堀川』研究:橋から洞察する人生」 (一九九七年、北九州大学文学部紀要第五四号)

(16)杉田英明「橋の上の宝の夢:中東説話の東西伝播」『比較文学研究:第七三号』(一九九九年、東大比較文学会)一一三頁。

(17)河田和子『「日本の橋」とフッサールの現象学:保田與重郎の「自然」と間主観的還元』(二〇〇〇年、昭和文学研究第四〇集)三七頁。

(18)保田與重郎 『日本の橋』(一九九〇年、講談社学術文庫) 八五頁。

(19)同書、四〇頁。

(20)同書、四〇頁。

(21)同書、六五頁。

(22)同書、三四頁。

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(23)同書、三三頁。

(24)同書、五九頁。

(25)同書、四七頁。

(26)同書、五一頁。

(27)松尾芭蕉「桟や命をからむ蔦葛」『芭蕉句集』(一九八二年、新潮社)一六一頁。

(28)河田和子『「日本の橋」とフッサールの現象学:保田與重郎の「自然」と間主観的還元』(二〇〇〇年、昭和文学研究第四〇集)三七頁。

(29)山口祐造『石橋は生きている』(一九九二年、葦書房)二六七〜三二七頁。

(30)保田與重郎 『日本の橋』(一九九〇年、講談社学術文庫) 六七頁。

(31)同書、三三頁。

(32)三浦基弘、岡本義喬『橋の文化誌』(一九九八年、雄山閣出版)六〇頁。

(33)『スタンダード英語語源辞典』(一九八九年、大修館書店)六五頁。

(34)『改正新版羅和辞典』(一九六六年、研究社)四七一頁。

(35)同書、四七一頁。

(36)同書、四七一頁。

(37)ダニエル・ストラック Deliver Us From Nada: Hemingway’s Hidden Agenda in For Whom the Bell Tolls (二〇〇〇年、北九州大学文学部紀要第59)

(38)山口祐造『石橋は生きている』(一九九二年、葦書房)一八一〜一九〇頁。

(39)土木学会関西支部『橋のなんでも小事典』(一九九一年、講談社)三三頁。

(40)同書、一一五頁。

(41)三浦基弘、岡本義喬『橋の文化誌』(一九九八年、雄山閣出版)三一頁。

(42)保田與重郎 『日本の橋』(一九九〇年、講談社学術文庫)同書、三九頁。

(43)大橋良介「日本の橋」『日本の美学:二八号』(一九九八年、ぺりかん社)三十頁。

(44)「橋と象徴:記憶としての文化・市場」『日本の美学:二八号』(一九九八年、ぺりかん社)一二頁。

(45)同書、一六頁。